by T.T氏
今でもアジアの途上国、特にフィリピン、インドネシアにおいて、風俗嬢の視線が気になる。特にフィリピンで、カウンターの上で棒をつかんで踊る風俗店に行くと、踊っている女の子(12歳〜18歳位)の視線が皆鋭い。これは、「私を指名してください」と、視線での哀願である。
彼女達はカウンターからの踊りによるパフォーマンスとともに、鋭い視線により、客の指名を奪い取ろうとしている。女の娘達全員がその様な視線を、客達に投げかけているため、最初はとても違和感を覚えた記憶がある。
以前米国で同じようなトップレスバー(女の子がカウンター上でトップレスになって踊り、お客がチップとしてパンテーにお札をはさむ)に行ったことがあるが、それとは、まったく違う。
最初、米国でそれを見た時はとても感激した。お札をはさむタイミング、はさみ方、金額、女の子への応援の仕方など、お客も女の子に気に入られようと努力したものだ。
連れ出しOKかどうかは分からなかったが、それでも米国風の風俗に感激したものだ。
国が違えば、このように違うのか。金持ち国と貧乏国との違いなのか、それとも国民性の違いなのかを検証すべく、今までの経験を通して、「風俗と国民性」について考えてみることにする。
それにも関わらず先輩は、一番前が空いたからと言って一番前に座り、良く見て行くのだと言ったが、あまり気が乗らなかった私は、一番前の席にもかかわらず、一人浮いていた。
劇場を出て、劇場内での私の態度をみて先輩は言った。
「踊り子さんが一生懸命踊っているのに、お前の態度は何だ。ストリップ劇場は、女の子の踊り、裸、お○○こを見て楽しむ所だ。客が嫌な顔をしていたら、一生懸命仕事をしている人(おばさん)に失礼だ。そんな奴は来る資格はない」
と言うような事を言われた。
その時は、先輩の言ったことの意味は良く分からなく、「おばさんはあんな事をしたらいけない」としか思わなかった私は、今では恥ずかしく思うくらい純情であったのであろうか。
しかし、結果的には、幸か不幸か、その言葉がそれからの私の風俗に対する、力強い探求心に結びついている原動力になっていることも否定できない。
また、現在そんな立派な事を言える高校生はいるのであろうか。その先輩は、現在破綻した銀行から某銀行に行き、そこで真面目に働いていると聞いている。
それに予断ではあるが、通っていた高校にその後、劇場内で一番お○○この良く見える場所の号外が、何物かによって書かれ、話題になった事を特筆したい。
このような高校に、プロジェクトHを歌う、大島みゆきと、ドリームゴーフォースがいたとは、信じ難いことだ。
−その2−
ホーチミンで一番手っ取り早いのは、シクロ(自転車タクシー)に言って、その手の所を紹介してもらうことだ。私たちの入ったところは、闇で営業を行っているところで、看板はなく、シクロの兄さんに連れて行かれなくては、絶対に分からないところであった。
店で酒を飲んで、気に入った女の子がいれば、連れ込みOKのホテルに一緒に行くのである。サービスは皆平均以上であり、ホーチミンの女には合格点を付けたい。ただここで注意することは、悪いシクロ兄さんがいることだ。
ホテルの後の帰り、夜中の1時にコーヒーを飲むためホテルに入り、飲んで戻ったら、シクロの兄ちゃんが「夜遅いので、シクロ(自転車)を警察に持っていかれた」と言い出し、取り返すので金が要ると、ほざいたのだ。その時、応援のシクロ一派が寄ってきて、殴り合いの喧嘩になりそうになった。その後はどうなったかは想像にまかせるが、この場合たいていの人は金を払い、問題解決をしますが、どっちにしても、気持ち的には大変不愉快な思いがします。歌舞伎町でボッタクリに会った時と同じ心境になり、歌舞伎町には二度と来ないぞと思うのは私だけでしょうか。
それと同じく、その国が嫌になります。しかし、良く考えると、上手く引っかかった人があまいのであって、引っ掛けた人はそれが商売なのです。日本では、泥棒は悪いと皆さんが思っていますが、場所が変わると、泥棒さんはチャンとした商売なのです。その点をしっかり頭に入れないと、各国での本当の善悪の判断が出来ません。
−考察−
ホーチミンは、年中真夏のためか、元フランス領であるのかは定かではないが、大変風俗関係に関しては、進んでいると考えられる。やはり、暑い国(地方)は性に対して開放的なのか。
北(ハノイ)と比べて超開放的であるし、それに比例して女の娘のサービスも良い。ベトナムの国民は、個人的にあまり好きではないが、南の風俗嬢に関してだけは、合格点をあげたい。また予断ではあるが、この国民は、金のあるものから金を取ることは決して悪く思っていない。
実際に国の政策として、ホテル代、飛行機代、汽車賃等は、ベトナム人と外人との二重料金制度になっている。このような政策のため、全国民の外国人に対する金銭感覚がおかしくなっていることは、否定できない。しかし、最近はその制度を改めようとしてはいるが、現実にはまだ履行できていない状況である。