〜日本ピンサロ研究会〜

随筆「私の想い人」

by るねぱぱ氏


 十数年前ケイが「シティ・プレス」に掲載された写真は、お粗末そのものだった。まだわずか19歳だったと思うが、華奢というより貧弱な容姿はまるでヒィリピーナだった。ケイはパブリシティ全開だったようで、その後も様々な雑誌媒体にに顔を出すが、年月を重ねていくに連れて身体全体にほどよく肉がつき、ショートカットで売り出した顔には可憐さが増し、目には以前はまったく見られなかった愁いのようなものさえできてきた。確実に、そして着実に美しさを増していった。
 私がケイと遊ぶべく決意した時は、最初に写真を見てからすでに二年が経過していた。ケイは恵里亜でチャコと並び、超売れっ子に成長していた。金津園のソープはほとんどのお店が会員制を敷いており、ケイのような売れっ子は数日前に予約で埋まってしまう。そこで仕方なく私は恵里亜のメンバーになるため、新幹線を乗り継ぎ、岐阜まで向かって恵里亜にフリーで入った。つまり本来なら2000円で済むメンバーズカードを得るために、総額45000円のプレイ代を払ったのだ。プレイが終わり、フロントでメンバーズカードを作ってもらうと、その場ですぐケイの出勤日を聞き、予約を入れた。
 後日、私は再び新幹線に乗っていた。
 ケイに会った第一印象は、やけに背が大きく顔の小さな女の子。ケイ自身、その事はよくお客に言われるらしい。童顔でショートカットのせいか、写真からは小柄な女性のように思われるようだ。もっとも愛くるしいキュートな顔は、当時まだけばけばしさ、野暮ったさが残る女性が多かったソープ業界では異質と言えた。とは言え、金津園では名花と言われた南野陽子が去った後、ケイを含め、恵里亜のチャコ、宝石のジーナ、優、キャッツアイの瞳、ダイヤモンドクラブのイヴ、シャトールーブルのリリーなどまさに百花繚乱で、吉原のソープ嬢をはるかに凌駕していた。金額も安い事から、東京からわざわざ新幹線を使って遊びに来る人がけっこういたほどだ。しかも当時は吉原よりも金津園の女性のほうがはるかに「仕事」はできたのだから当然と言えよう。
 ケイとのセックスは思いのほか楽しかった。敏感なケイはよく濡れ、本気で喘ぎまくった。しかも演技ではなく、実に簡単に果ててしまう事に吃驚した。それにしてもよくもまあこんなに濡れるものだと感心していると、
「この仕事は濡れないとやっていけないわ」
 そう言ってころころ笑っていたのを強く記憶している。ケイはよほどセックスが身体に合っていたようだ。男に抱かれる事で、身体に磨きがかかっていったように思われる。後々親しくなった部長がこう話してくれた。
「今までいろんなコを見てますが、お風呂の仕事をしていてこんなに奇麗に生まれ変わったコも珍しいですね」
 ケイにとって、ソープの仕事は天職だったのかもしれない。
 その後も幾度か逢瀬を重ねた。ケイは陽気な女性でよく笑った。ショートカットの笑顔が非常によく似合う可愛い女性だった。最初に抱いた時はケイは21歳だったが、その年になってもなお、乳房が成長している女性だった。このままいったらどこまで美しくなるのだろう。そんな事を考えた時もあった。
 やがてケイに転機がくる。ケイは一度美倉ケイという芸名でAVにデビューしているが、その時は失敗していた。再度AVに賭けたのだ。今となっては何が彼女をそこまでさせたか理由はわからない。有森麗となったケイはクリスタル映像を中心に、大手メーカーから次々と作品がリリースされた。ケイは生活基盤を名古屋から東京へと変え、やがて吉原のラ・ゲールに現役AVソープ嬢として働くようになった。もっともケイだけが総額10万円と、破格の金額だった。私は吉原に来てからのケイと一度も遊んだ事はない。冷たい言い方かもしれないが、しょせんケイは45000円の女性で10万円出して抱く価値はないと思ったからだ。人気の凋落とともにケイは恵里亜に戻り、恵里亜が締まる前にひっそりと退店した。今、ケイがどこで何をしているのかは当然わからない。
 ケイはいなくなったが、今から十数年前、ケイと幾度と抱き合った出来事だけは忘れる事はない。ソープ嬢がお客と本気になる事はない。一種の疑似恋愛だったにせよ、30代初頭の私の想い人だった事は確かな事実だ。

 調査部 広域調査課長 るねぱぱ (H17.06.12)

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