〜©日本ピンサロ研究会〜

研究ノート「風俗の歴史と変遷」

by マーシー氏


 日本の風俗産業の中で一番古い歴史を持つのは「ストリップ劇場」です。
 舞台で主として女性のダンサーが、音楽に合わせ服を脱いでいく様子を見せる出し物であり、古くからの大衆の性的娯楽の一つとなり、「ストリップ」と略して表現されていた。
 1947(昭和22)年、東京都新宿角筈(現在の新宿三丁目)の「帝都座」で「名画アルバム」という催物として始まったのが最初と言われています。
 この時、乳房は露出していたが、陰部は扇で隠されていたようです。当時はモデルが動けば風俗擾乱として摘発されるために、実際の女性が西欧の裸体画に扮し、踊りはなくじっとしているもので、額縁ショーと呼ばれていたそうです。
 その後、規制は緩和され、変化を付けるため、行水ショーなど様々に工夫がされたそうです。
 そして1948(昭和23)年、台東区浅草の「常盤座」にて初めて踊りを取り入れたストリップショーが開催され、その後に全国的な広がりを見せて、大衆娯楽へと発展していったようです。
 名古屋には「銀映」と「鶴舞劇場」という二つの「ストリップ劇場」がありましたが、今では両方共に廃業をしています。

 さて小生が生まれて初めて風俗に足を染めたのは「トルコ風呂」でした。これは「個室付き浴場」に分類され、現ソープランドのルーツです。
 誕生は1951(昭和26)年とされているが、はじめから性風俗であったわけではなく、マッサージをしてくれる健全な場所であったとされます。
 しかし1958(昭和33)年、売春防止法売防法施行による赤線の閉鎖によって、「トルコ風呂」では女性による性的なサービスが行われるようになり、一気に性風俗産業の中枢となりました。
 この現ソープランドがまだ「トルコ風呂」と呼ばれていた時代に小生は、名古屋市中村区大門のお店に足繁く通っており、顔馴染みのトルコ嬢がいました。
 この大門という地区にはその昔、「中村遊廓」が存在し、賑わいをみせていたということです。
 この地区は真四角に区画され、その四つ角から放射状に道路が延びるという特徴がみられ、町名も大門・賑・寿など、それらしき名前が付けられています。
 売春防止法施行後は、「遊廓」の佇まいそのままに旅館や飲食店などに転じ、いくつかは「トルコ風呂」になったということです。
 現在の「ソープランド/インペリアル福岡」は当時、「福岡旅館」という歴然とした宿泊施設でしたが、「トルコ福岡」が同じ敷地内に同居しており、不思議な感じがしました。
 全国各地にトルコ風呂は存在しましたが、東京オリンピックを控えた1963(昭和38)年に当局の風紀取締りが強くなります。また1966(昭和41)年、永田町の首相官邸裏にトルコ風呂新設の申請が出されるが、時の首相・佐藤栄作の逆鱗に触れ「風俗営業等取締法の一部を改正する法案」が提出、トルコ風呂の新設にブレーキがかかることになりました。
 しかし、それでも「トルコ風呂」はさまざまなサービスを考案し、さらに店舗数も着実に増えていき、1981(昭和56)年には店舗数が1560件を数え、そこで働く女性は2万人になったとされています。
 その後の1984(昭和59)年、トルコ人留学生が「トルコ風呂」という名称について厚生大臣に直訴したところ、東京都特殊浴場協会は名称を公募し、「ソープランド」と名付けたのが、「現ソープ」の始まりです。
 またさらに1985(昭和60)年、新風俗営業法が施行され、午前0時以降の営業が出来なくなり、業者は打撃を受けることになります。
 またこのころからエイズ問題が表ざたになるようになり、客はソープランドから離れ、またソープ嬢と呼ばれる女性たちも足を洗っていくようになったようです。確かに小生も、このエイズ騒動で「ソープ」を敬遠し始めた記憶があります。

 さてこれに代わって活気を呈したのがピンクサロン、略して「ピンサロ」です。「ピンサロ」とは、ソファーでホステスと酒を飲みながら話をするキャバレーにピンクサービスが加わったという業種です。
 このピンサロという営業形態の誕生は前述の「トルコ風呂」と同時期である1950(昭和25)年頃だといわれています。初めはハンドサービスのみであったそうですが、次第にサービスが過激化し、素人女性が多く働くようになったこともあり、1970(昭和45)年頃には店舗数も急増し、全盛期を迎えます。
 サービスの過激化も行くところまで行くと、「ホンバンサロン(本サロ)」といった売春行為を行う店まで現れたのも、この頃だそうです。
 しかし1975(昭和50)年以降、警察が摘発に乗り出し、また「ぼったくり」をおこなうピンサロが増えてきた結果、客足は次第に途絶えていき、ピークは去ったとされていますが、当時の小生は「ピンサロ」の利用を避けていました。その理由は清潔感とホステスの年齢です。
 しかし、現在のピンサロは全盛期ほどの勢いはないですが、敷居の低さと料金の安さ、さらには20歳前後のギャル系の嬢がアルバイト感覚で働いていることもあり、いまだ人気は衰えてはいないと思われ、小生が「ピンサロ」に足を運んだのは、2004(平成16)年以降です。ちなみにこの「ピンサロ」、名古屋では「キャンパブ」と表現されています。

 さて、ストリップ、ソープランド、ピンサロ以外にもさまざまな呼称の性風俗が誕生しました。 新たに生まれた「性風俗産業」を「ニュー風俗」などと呼んでいた時期がありました。
 この「ニュー風俗」の代表が1980(昭和55)年の「ノーパン喫茶」ではないでしょうか。「ノーパン喫茶」とは、その名の通り、下着を着けていないウェートレスがコーヒーを運んでくるという喫茶店です。関西地区から火が点き、大阪を中心に一気に広まったようです。
 この「ノーパン喫茶」は当然、東京・名古屋にも飛び火し、下から通風孔でスカートを捲り上げるなど、さまざまなサービスが行われるようになりました。ちなみに小生も名古屋の「ノーパン喫茶」に一度だけ足を運びましたが、特出した印象はなかったと記憶しています。
 それでも最盛期には東京で200店舗、大阪で150店舗ほどを数えたようですが、このブームは長続きせず、「ノーパン喫茶」はいつしか消滅してしまいましたが、この時期他に「愛人バンク」という愛人を持ちたい男性と、愛人になってお金を得たい女性を取り持つクラブや業者も注目を集め、当時23歳であった美貌の女性社長が創業したとのふれこみで、「愛人バンク 夕ぐれ族」が社会現象となりました。

 次に登場したのが「テレフォンクラブ(テレクラ)」だと思われます。テレクラとは電話を介して女性との会話を斡旋するお店です。お客は個室で女性から店に電話がかかってくるのを待ち、その女性との会話を楽しみます。個室にはティッシュペーパーが配置されており、テレフォンセックスを楽しむことも可能です。基本的にはそれだけなのであるが、女性との交渉次第では外で逢う約束を取り付けて、性行為にまで発展する可能も考えられます。
 1985(昭和60)年の風俗営業法改正後に注目されて、一気に流行した業態とされています。しかし、現在ではパソコンや携帯によるインターネットの「出会い系サイトが」普及したため衰退している。当時は女性からかかってくる電話を真っ先にとるコツや、受話器をとるタイミングなどを伝授する記事などが男性誌で賑わいをみせていた記憶がありますが、小生は利用の経験がありません。
 そして、こうした「ノーパン喫茶」、「愛人バンク」、「テレクラ」など下火になった風俗に代わって登場してきたのが「ヌキ」をサービスに加えた「個室スタイル」というものではないでしょうか。
 アダルトビデオを鑑賞するために、一人がやっと入れる程度の個室を多数設置した「個室ビデオ」が誕生し、これは「ビデオボックス」や「ビデオ試写室」とも呼ばれました。レンタルビデオを家に持ち帰ったり、返却したりする手間が省け、また自宅で鑑賞するには都合が悪い人が思う存分に鑑賞することができ、精液処理用のティッシュなども設置されていることから、オナニーを目的とすることもできる風俗店として位置づけられました。
 店舗によっては視聴時間中に女性従業員が個室を訪れ、別料金で胸にタッチさせたり、客に短時間の手コキやフェラなど行い、射精を促すサービスを提供したり、追加料金で従業員が服を脱いだり、足コキ・顔面騎乗など、過激なサービスを売りにする店舗も現れました。これが現「ビデオボックス」、「ビデオパブ」の始まりと思われます。
 基本的に客側は性器への軽い愛撫程度までしかできないので、女性の仕事内容としては他の風俗店と比べ抵抗感が少なく、短時間で多く稼げるので素人女性のアルバイトとしても人気が出たようです。
 当時、深夜のアダルトテレビ番組「トゥナイト」で、映画監督の山本晋也氏による風俗街リポートの中で、これらの「ニュー風俗」が面白おかしく紹介されて話題を集めました。そして山本晋也氏がリポート時に発していた「ほとんどビョーキ」というフレーズは当時の流行語にもなりました。
 こうして「性風俗産業」が堂々とマスコミにとりあげられ、それをみた素人の女性がこういった風俗店で働くようになったように思われますが、この頃は性風俗に新しい風が吹き込まれた時代と言えるでしょう。
 ちなみに名古屋名物とまで称された「ピデオパブ」の誕生は2002(平成14)年頃だと思われ、当時は「ココア」、「めだか2」、「だぴょん」といったお店が人気を博しており、店舗数も激増しました。しかし現在は「ピデオパブ」の軒数が激減し、斜陽傾向にありますが、小生はこの業態の魅力にいまだにハマっており、定期的な訪問が繰り返されています。
 またファッションヘルス(通称ヘルス)が一気に広がりを見せました。ファッションヘルスとは風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)に定める店舗型性風俗関連特殊営業店の一つに該当され、「個室を設け、当該個室において異性の客の性的好奇心に応じて、その客に接触する役務を提供する営業」のうち、ソープランドを除いたものと定義されている。
 一般に女性従業員が男性客に個室で性的なサービスを提供する日本における、いわゆる風俗店の王道として位置づけられると思います。キスやペッティングで客の男性を射精に導く店舗であり、本番行為(性交)は行われないのが基本です。
 これがさらに進化して、「M性感ヘルス」や「ニューハーフヘルス」など、独自のサービスを売りにするお店も増えました。ファッションマッサージという呼び方をする場合や、「○○エステ」と称する店でも営業実態はヘルスと同じ場合があります。また「韓国式エステ」、「台湾式エステ」、「中国式エステ」、「アロマエステ」など、エステという業態も多く存在し始めました。「エステ」という業態は原則として「性風俗産業」とは違い、「マッサージ業」の区分に法律上は該当するらしく、監督官庁も「公安委員会」ではなく「保健所」となり、営業可能時間帯が異なるようです。
 現在、名古屋市を中心として愛知県で営業が確認できるヘルスは200店舗弱と言われており、最盛期と比べると減少傾向にありますが、名古屋にこれほどのヘルスが誕生したのは1985(昭和60)年2月に施行された「新風営法」の影響が大きいとされています。
 「新風営法」ではヘルスは風俗関連営業であり条件をクリアしていれば申請するだけで営業ができたので、条件をクリアしていた空き店舗が次々と申請され、色々な場所にヘルスができたようです。前にも述べましたが、施行時はエイズが騒がれていたのでソープランドを敬遠する風潮もヘルス増加につながったと思われます。当時はエイズについての知識が浸透しておらずSEXするとエイズになる、AFでエイズになるなど間違った情報が出回っていたので、本番を避ける方向へと客が流れたようですが、小生もその一人であったことは紛れもない事実です。

 名古屋では1991(平成3)年のバブル崩壊により、錦(錦三)を中心とした繁華街の中心地の広いスペースに出店することが可能となり、内装を豪華にしたり、特徴を持たせたヘルスが出現し始め、雑誌やメディアが名古屋のヘルスを取り上げ始めました。
 メディアへの露出が増え始めたことで、一般女性に対しても「ヘルス」という職種が浸透して、多くの素人女性が働きだして、在籍する女性のレベルは格段と上がったように思われます。風俗雑誌もソープランド全盛期は「ザ・漫遊記」や「プレイマガジン」が創刊されていましたが、ヘルスが増えた1994(平成6)年には、まるで百科事典のような厚みがある風俗誌「シティ・ヘブン」が創刊されました。「シティ・ヘブン」はヘルス情報や割引チケットが充実していたこともあり、人気を不動のものにて、名古屋では超有名な風俗雑誌となりました。当時、小生もこの雑誌を購入して、読みふけっていたことがあります。
 しかし、1996(平成8)年9月、愛知県条例で愛知県内でのヘルスなどの個室マッサージの新規出店が全面禁止となるのですが、条例が施行される直前には当然のごとく出店ラッシュがあり、この頃の愛知県内のヘルスは300件を超えたとされています。1996(平成8)年をピークに大手チェーンに吸収されたり、廃業を余儀なくされたお店もあり、店舗数は確実に減少しています。
 ちなみに小生が初めて訪れたヘルスは名古屋駅西口の「ハート・イン・ハート」であったと記憶しています。
 また新たな業種として、コスプレ系飲食店が現れました。これは漫画やアニメのキャラクターに興味を抱く若者の「おたく文化」を取り入れ、店員がコスプレをして接客を行う飲食店のことで、喫茶店ないしは居酒屋などを業態としています。特に女性店員がメイドのコスプレを行って接客する喫茶店が「メイド喫茶」や「メイドカフェ」と名付けられました。「メイド喫茶」や「メイドカフェ」では客を旦那様と呼び、「お帰りなさい、ご主人様」と言って出迎え、メイドに扮した「お嬢様」が給仕するのが接客のパターンとなりますが、サービスコンセプトとしては「癒し」をテーマにした店舗や「萌え」をテーマにした店舗など、様々のようです。
 またマッサージを行う「メイドリフレ」という形態を取る店舗も出現しました。しかし、小生はメイド系にはあまり興味がなく、「メイド喫茶」や「メイドカフェ」、「メイドリフレ」への訪問はいまだありません。唯一、メイド系のビデオパブ、「タッチDE 5」への訪問ぐらいです。

 さて今回は小生の体験を交えて、風俗の歴史と変遷というテーマで述べさせて頂きました。正直に言って小生、風俗体験については遅咲きです。本文でも述べたテレビ番組や風俗雑誌を興味本位から見てはいましたが、ソーブやキャバレー以外の風俗店に足を運んだのは晩年になってからです。しかし、今回のレポを綴ったことで過去の出来事が懐かしく感じられました。

 研究部 風俗基礎理論研究室長 マーシー (H24.09.19)

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