結論から言えば,究極的には「裁判所(裁判官)の判断による」と言うことである。
わいせつの判断は裁判所が社会通念を基準として判断すべきものであり,その社会通念がいかなるものかの判断も裁判官にゆだねられている。(最高裁大法廷判決 昭和32年3月13日)
しかしこれでは一般市民には判断のしようがないではないか?と言われてしまいそうだが,その通りなのである。法律を解釈・適用するのは客観的に,また法律的に見て行われなければならない。ほんの少しでも邪な考え方があってはならないのである。であるから第三者的立場で裁判官が判断するのである。
法の解釈が「警察」の業務と思っている方もいると思うが,厳密に言えばそうではないのは上の判例により明らかである。警察は法令に背違していると「疑われる者」を逮捕しているにすぎず,法令を単に形式的に適用しているにすぎない。もちろんそこにはそれなりの解釈が無ければならないが,これが最終的なものではない。最終的・確定的な解釈は裁判所が行うものであり,唯一のものである。であるから訴訟で争うことができ,判決が言渡され有罪が確定するまで「被告人は無罪と推定される」のだ。
通常,刑事訴訟で争われることが多いのは「起訴事実(何をどうしたのか)」であり,法の解釈が誤っていることを主張する例はあまりない。(法令の適用について争う例は散見される。殺人→傷害致死,強盗→窃盗など)
現在,検閲は憲法第21条「集会・結社・表現の自由,検閲の禁止,通信の秘密」により禁止されており,公の機関が出版物等の(販売前の)検閲はできない。事前の検閲がなされないということは,逆に言えば摘発される可能性の高いものも発売可能なのである。しかし発売後に発売禁止,刑事責任の追求等のリスクを負うことになる。自由にはそれなりの代償が必要なのだ。
出版社,AV制作会社も営利企業である以上,発売禁止のような事態は最も避けたい筈である。そのため,ビデ倫などの機関が自主的にわいせつの基準を作り,それにもとずき修正等を行っている。そしてそうした自主規制は社会からの反発等を考慮し,より普遍的な規制となりやすく(裁判所の判断と比較しても)比較的厳しい規制となることがある。
明治40年の制定以来,基本的に刑法の条文に変化はないものの,わいせつ物の判断は社会通念により変化するもので,また,見る者の立場の違いにより微妙に温度差があり,はっきりと「ここまで」と言い切れるものではない。
だが,判例の言う「社会通念」は一般市民が作り出すものであり(そこに何かを作り出そうという意思が存在するわけでないが)ある程度の流れは分かるはずである。その流れとは?これも難しい。一体何を持ってして判断すればいいか,どこで一線をひけばいいのか,難しいものがある。
最近はヘアヌードはごく自然になものとして社会に受け入れられているが,これを一番最初に出版した者はかなりの勇気が必要だった筈である。多分摘発されるのを半ば覚悟の上での決断であったろう。拍手を送りたい。いかなることも前例から抜け出すのは困難なことなのだ。
次の判例は比較的具体的で参考になると思われる。
性器及びその周辺部分を黒く塗りつぶしてあるが,その修正の範囲が狭く,不十分で,現実の性交等の状況を詳細,露骨かつ具体的に伝える写真を随所に多数含み,物語性,思想性など性的刺激を緩和させる要素が全く見あたらず,全体として,専ら見る者の好色的興味に訴えると認められる写真誌は,本条(刑法第175条)のわいせつ図画にあたる。(最高裁判決昭和58年3月8日)
要すれば,修正の範囲が狭く,不十分な写真はわいせつ物となる。かの加納典明氏の写真誌は,下着等を着用しているとはいえ,そこから透けて性器等を窺うことが出来るので,裁判所も「(修正すべきところだがこれを修正せず)修正が不十分」と判断したのであろう。
つまり今のところ裁判所が考えている「社会通念」はヘアまでで,たとえ下着等を着用していても,性器等が認識しうるものは明らかにわいせつ物であると考えていると見て間違いない。
裁判所も社会通念は変化するものと認めるところであり,今後「社会通念」なるものがどう変化するかじっくり見させていただこうと思う。