〜日本ピンサロ研究会〜
 

随筆「私も想い人」〜るねぱぱさんの「私の想い人」を読んで〜

by 伊勢屋氏


 車を運転していて、1980というナンバープレートがあれば、誰かの誕生年を連想します。最近では、108とか、180とかいう数字や、「ケン」とか「Tiger」という文字列を見ると、
「あ、あの人だ」
なんて連想もあったりするわけです(笑)その文字列をみて、何かを連想するってことありませんか?

 ケイという文字列を見ると、金津園の恵里亜の元ケイさんを連想してしまいます。どこかのホテヘル嬢に、多そうな名前だったりしますが、私の場合は、恵里亜のケイさんを連想するようです。
 るねぱぱさんの「随筆「私の想い人」」を読みまして、「ケイ」という文字列に再会し感慨深い気持ちになりました。というわけで、「私も」+「想い人」です。

 1988年ごろ(?)、私が(今以上に)右も左も知らなかった青年時代、初めて買った風俗情報誌が当時の「ナイタ○マガジン」でした。 現在は、ヘブ○やマンゾ○が優勢ですが、当時はそれはなく、ナイタ○とシティプレ○が栄華を誇ってい記憶があります。で、そのたまたま購入した「ナイタ○マガジン」巻頭特集に、金津園の恵里亜のケイさんを含めた、当時の看板の3人のお嬢が載っていました。ケイさんは、確か18才ってことで載っていたように思います。風俗の女の子で、しかもソープで、「こんなにも可愛い子がいるの?」って印象が正直なところでした。
 当時の私は、風俗には興味のあったものの、ヘルスにすら行ったことがなく、ましてやソープへ行くような、それも大阪を離れて岐阜まで遠征で行くということは想定外でした。というのも、甲斐性が皆無であったため、妄想のみでモンモンとしていたわけです(笑)。

 それから4〜5年くらいたったころ、当時よく通っていたビデオレンタル店にて、有森麗さんのAVを発見しました。そのルックスから、「どっかで見たことあるなあ」と目にとまり「もしやケイさんでは?」と、解析できたのは、自宅でその借りたAVを堪能した後でした。当時の私にとっては、衝撃の再会となったわけでした。再会といっても、写真レベルでの再会なので、なんてことないのですけどね。
 有森麗さんのAVはかなりハードプレイ(←当時の私にとっては)で、そのビデオレンタル店では彼女のAVをよく借りたものです。るねぱぱさんも書いておられるとおり、年齢を重ねるごとに、彼女の妖艶さは魅力を増し「抱いてみたい」と思わせる魅力が増えていったような記憶があります。
 ショートカットもボディラインも個人的な嗜好にぴったりで、自分はこういうタイプが好きなんだなあと、自分を再発見させてもらった感もあります。
 そのためか、「ナイタイマガジン」も、有森麗さんのAV(個人的にダビングしたもの)も、数年前の引越しの際に処分するまで捨てずに、大事に長期間保管していました。「これは捨てられないよなあ」という感じでしたね。

 その後、恵里亜という店舗自体が無くなってしまって、確か、マキシムに、一時、在籍されていたような記憶があります。(ご存知の方おられますか?)当時の風俗情報誌に、マキシムのお嬢として載っていた記憶がおぼろげながらあります。今なら当時の私に「岐阜へ行ってこいよ」とアドバイスするのですが、お店へ行くという事自体、当時の私の発想には存在していなく、単なる憧れの存在でした。
 そうそう吉原のお店におられたということ、「美倉ケイ」という芸名がAVデビュー時だったとは、るねぱぱさんの随筆を読み初めて知りました。

 私自身は、ケイさんにはいったことも無く、風俗情報誌の紙面と、AVでのみの接点でしたが私にとってもケイさんの存在は、青年時代の忘れる事のない出来事でした。今、想えば、草創期のケイさんの時代に入っておきたかったと感じています。それくらい印象にのこっています。

 長文・駄文、失礼いたしました。

 大阪支部長 伊勢屋 (H17.06.15)

トップページへ

〜日本ピンサロ研究会〜