〜©日本ピンサロ研究会〜

研究ノート「地形で読み解く風俗序説」

by えせ男爵氏


はじめに
 風俗は古代よりアジールで営まれることが多かったといわれています。アジールとはもともと「聖域」を意味していましたが、その後、世俗の権力がおよばない場所とされ、罪を犯したものや政治的な迫害を受けたものが逃げ込むことのできる「避難所」としての役割も果たすようになりました。
 もともとは神殿や寺院といった宗教的な場所がアジールとしての役割を担っていました。ギリシアの歴史家ヘロドトスの『歴史』の中でも、古代メソポタミアのイシュタルの神殿に「神聖娼婦」がいたことを伝えています。
 その後、時代がくだるにつれ、アジールの役割は都市が担うこととなりました。都市がアジールとなったのは、もともと「市場」というものが公権力から自由な場として存在したからです。そのため最初の「市場」は、しばしば辻や河原、中州といった、所有者のいない「無主の地」に開かれることが多かったのです。そして風俗も、もっぱらこうした土地で営まれることが多かったのです。
 風俗がアジールで営まれる理由は、古来より風俗というもの自体が、社会の内部と外部との境界領域に位置しているとみなされてきたからに他ありません。風俗とは本来、社会の基本単位である家族制度を逸脱したものです。また風俗に従事する女性(または男性)は、しばしば社会のコミュニティから逸脱したもの、もしくは社会の外部からやってきた漂泊者でありました。さらに風俗は、生物学的にも生殖を目的としない生殖行動であり、本能を逸脱した行為ということができます。こうした様々な意味で、風俗は社会から逸脱した存在でした。しかし社会は風俗というものを外部に完全に排除するのではなく、あえて境界領域に置くことで、折り合いをつけてきたのです。
 さてこうした境界領域に位置する風俗は古来より、水辺に営まれることが多かったのです。水辺というのは、人が居住するのに適さない「無主の地」であるとともに、象徴的にはこの世とあの世の間に横たわる三途の川を思い起こさせます。
 我が国においても、風俗街の歴史をひも解くと、もともとは河原や中州といった水辺の土地であった事例を多く見ることができます。以下では、全国の代表的な風俗街のうち、水辺と関係の深い場所を取り上げて見てみたいと思います。

1.札幌
 札幌の歓楽街にして風俗街であるすすきのは、もともとススキ(カヤ)が茂る野原であったことが地名の由来といわれています。開拓以前の札幌の周辺はもともと豊平川が形成した広大な扇状地で、そこには豊平川の分流が毛細血管のように流れていました。開拓にあたっては、最初に豊平川の分流のひとつを運河として整備し、治水をおこないました。これが現在の創成川です。そのとき現在のすすきの周辺は都市区画の南のはずれに位置し、札幌周辺に点在していた私娼を一か所にまとめ、1871年に公認の遊郭として設置されたものです。
 すすきのが立地する場所は、創成川の左岸にあたりますが、もともとこのあたりは豊平川の氾濫原にあたっていたと考えられます。すすきのの地名の由来となったカヤは、河原の土手などに広く生育する植物ですので、この土地の元々の環境を物語っています。またすすきのの南側には中島公園がありますが、もともとはこうした氾濫原に形成された三日月湖状の地形であったと考えられ、「中島」という地名もまたこうした地形に由来したものと考えられます。

2.函館
 函館の街は、もともとは島であった函館山と北海道本島とをつなぐ砂州(陸繋砂州)の上に営まれた港町です。函館戦争の舞台となった五稜郭は本島側の、砂州の根本にあたる場所に築かれましたが、開拓使の支庁や外国公館などは函館山のふもとに置かれ、赤レンガで有名な倉庫や市場などはその間の砂州の部分に置かれました。
 函館の風俗街としては、かつて大森遊郭が現在の松風町のあたりに存在し、現在でも「大門」という地名で残されています。この大森遊郭があったあたりが、ちょうど砂州の中央部にあたります。大森遊郭は1908年に、函館市内にあったいくつかの遊郭が移転してきて形成されたものでしたが、1957年に廃止されました。
 しかしその後も、隣接する若松町に「セキセン」と呼ばれるスナック街が残りました。その名の由来は不明ですが、「赤線」の読み方から転じたものかもしれません。小生が数年前に訪れた時には、かなりさびれており、ごくわずかな数の店が営業していましたが、その後周辺は再開発でスーパーやホテルなどが建てられたそうですので、現在でも残っているかはわかりません。

3.吉原
 吉原は江戸時代より日本を代表する風俗街として有名です。吉原遊郭は当初は日本橋の近くに置かれ、現在の人形町周辺にあたります。当時その周辺は海辺の湿地帯で、ヨシが覆い茂っていたことから吉原の名前が付けられたといわれています。しかし日本橋の吉原は1656年に現在の浅草寺裏の日本堤への移転を命じられます。これは江戸の市街地が拡張し、遊郭を都市の外側に移したいという意向があったと考えられます。おりしも翌年の1657年には明暦の大火が起こって江戸の市街地の大半が焼け野原となり、新吉原も江戸の復興都市計画の中で移転が進められることとなったのです。
 新吉原の置かれた日本堤は、その名の通り堤防が築かれた場所です。このあたりはもともと隅田川の氾濫原にあたり、湿地帯が広がっていたと考えられます。隅田川をはじめ、今日の東京低地を流れる河川はしばしば氾濫を起こして江戸の町に大きな被害をおよぼしていました。そのため幕府は、現在の三ノ輪駅のあたりから浅草の待乳山聖天のあたりにいたる、北西―南東方向にのびる大規模な堤防を築きました。これが日本堤です。今では堤防は切り崩されて残っていませんが、現在の土手通りが堤防の痕跡として残されています。
 吉原遊郭は日本堤に隣接する形で設置されました。現在でも遊郭があった範囲だけ、町割りが周辺と異なっていることがわかります。遊郭の正門である大門は日本堤に面して開かれており、吉原には日本堤側からアクセスされたことがわかります。日本堤には桜が植えられ、堤防だけでなく道路としても用いられたようです。また江戸時代には水上交通が発達していたため、チョキ船と呼ばれる小船を使って隅田川からアクセスする客も多かったようです。

4.横浜
 横浜は幕末に国際港として開かれた地でしたが、それまでは漁業や製塩をおこなう一漁村にすぎませんでした。そして当時は海が内陸まで入り込んだ、いわゆるラグーン地形を形成していました。現在の関内の周辺は海岸線に対して平行にのびた砂州の地形であり、その内側、すなわち現在の大岡川と首都高速にはさまれた、福富町から伊勢佐木町や曙町を含む範囲はもともとラグーン(内海)であったと推定されます。つまりもともとの横浜は関内周辺の、砂州の部分だけを指しており、横に細長く伸びた地形からその名前が付けられたといわれています。ラグーンは江戸時代より干拓がおこなわれて徐々に埋め立てられていったようですが、幕末の地図を見てもまだ福富町や伊勢佐木町のあたりは湿地帯として描かれています。
 横浜で遊郭が置かれたのは真金町と永楽町で、あわせて永真遊郭とも呼ばれました。この遊郭は明治半ばに、周辺の港崎や高島町にあったいくつかの遊郭をまとめて移転させて成立しました。しかし戦後の売春防止法施行によって廃止され、風俗の中心は私娼街であった曙町や、トルコ風呂の営業禁止除外区域に指定された福富町へと移っていきました。

 また2000年代前半まで外国人風俗街として有名だった黄金町は、大岡川沿いの、もともとラグーンだった低地のへりに位置しています。大岡川は明治以降、横浜の港と内陸をつなぐ河川交通の動脈として用いられ、戦後には周辺にスラムが形成されました。中にははしけを転用し、川に浮かぶ売春宿もあったといわれています。1970年代頃から外国人の売春婦が増え始め、一時は中国系・東南アジア系・中南米系と様々な地域からの売春婦らが働いていましたが、2005年に大規模な摘発がおこなわれてこれらの「ちょんの間」は一掃され、現在ではかつての店舗はアーティストのアトリエやギャラリーとして転用されています。

5.雄琴
 風俗街としての雄琴の歴史は新しく、1971年に雄琴温泉の南端の苗鹿三丁目に第一号のトルコ風呂(ソープランド)が開業したのが始まりです。その後、琵琶湖に突き出した半島状の地形の土地に次々と風俗店が建てられ、現在の雄琴の景観が成立しました。
 雄琴の成立の背景には、京都でトルコ風呂の営業が禁止された(かつては新京極周辺にありました)ため、移転してきた業者があったことと、マイカー時代の到来を見越して、自家用車でアクセスできる立地として選ばれたことなどがあったといわれています。
 日本の風俗街の多くは遊郭や赤線・青線に由来するのに対し、雄琴が戦後になっていわば人工的に作られたということは特筆に値します。しかしここにおいても、琵琶湖の湖畔の水辺に営まれたという事実は興味深いことです。

6.飛田
 かつて大阪平野の大部分には海が入り込み、古河内湖と呼ばれる広大なラグーンを形成していました。陸地だったのは南北に半島状に突き出た上町台地の周辺だけで、古代の難波津や難波宮、四天王寺などはいずれもこの半島状の土地の上に営まれました。 飛田新地が位置するのは、かつて半島だった地形の根本の、海に向かって西側に下がった部分に位置しています。現在でも飛田新地の東端は切り立った崖の地形となっていますが、ここがかつての海岸にあたると考えられます。つまり新地が広がっている場所はかつて海であったと推定されます。
 飛田新地から少し登ったところには現在の天王寺公園があり、その中には茶臼山と呼ばれる小高い丘があります。ここはかつて真田幸村が陣を敷いたところとして有名ですが、もともとは古墳時代に築造された前方後円墳でした。この古墳はかつての半島の付け根に築造され、その西には大阪湾、その東には古河内湖が広がっていたと推測されます。
 さて飛田新地のある場所は、江戸時代には墓場や刑場として用いられていたといわれています。それが1912年に難波新地がミナミの大火によって壊滅した際に、代替地としてここが選ばれ、飛田遊郭として発足しました。幸いなことに第二次世界大戦でも空襲をまぬがれ、戦後には赤線となり、売春防止法施行後の1958年には「料亭」として営業を継続し、今日にいたりました。そのため大正から昭和初期に建てられた建築が良く残っており、大正年間に建てられた「鯛よし百番」は国の登録有形文化財になっています。

7.福山
 福山は中国山地から瀬戸内海にそそぐ芦田川の下流のデルタ地帯に営まれた街です。その歴史は古く、中世には草戸千軒と呼ばれる街が芦田川の河口にありましたが、洪水によって一夜にして滅んだと伝えられています。戦後の発掘調査によって草戸千軒遺跡の様子が明らかにされ、現在の草戸町のあたりの、芦田川の中州に集落が営まれており、また当時の海岸線は今より内陸側にあり、草戸千軒は海に面した港町であったこともわかりました。さらに中国大陸や朝鮮半島製の陶磁器などが出土したことから、海外ともつながった商業都市であったことがわかりました。
 さて福山のかつての風俗の中心は新町遊郭で、現在の住吉町のあたりにありました。現在の風俗街はかつての遊郭を引き継いで成立したもので、現在の入船町や松浜町あたりにキャバクラやセクキャバ、ピンサロなどが点在しています。かつてはこの側まで海が入り込んでいたと想定され、松浜町という地名もそれに由来するといわれています。また入船町自体が、もともとは福山城につながる運河があったところであり、地名もそれに由来します。さらに現在でも入船町から御船町をへて福山城にいたるまで、周辺の南北の町割りに対して北西―南東方向に斜めに入り込んだ町割りとなっていますが、これも運河であった頃の名残です。
 この周辺にはかつては「パツ屋」と呼ばれる店がいくつもありましたが、摘発によって姿を消しました。しかし数年前に小生が訪れた頃には、道端にポン引きが立っており、その誘いに乗ると今は営業していないスナックのような建物に連れていかれて、そこで女性と会うことができました。しかし現在でもそのようなことがおこなわれているかはわかりません。

8.小倉
 小倉は小倉藩の城下町として栄え、近代には軍都として、そして北九州工業地帯の中心地として繁栄しました。明治時代に旭町遊郭が現在の船頭町に設置され、それが現在のソープ街につながっていきます。
 船頭町という地名が物語っているとおり、かつてはこのあたりは船着き場であったと推測され、以前の海岸線は現在のJR鹿児島線が通っているあたりであったと推定されます。

 小倉の街自体、紫川をはじめとする大小の河川の河口部に形成された沖積平野の上に営まれています。北九州の台所として有名な旦過市場は、神嶽川の川岸に営まれた魚市場から発展した市場ですが、店舗のうち川岸のものは川の上にせり出して建てられており、あたかもアジアの水上マーケットのような景観を呈しています。

9.中洲
 博多は、かつては那の津と呼ばれ、古代から港町として栄えてきました。鎌倉時代頃の博多の様子を描いた『博多古図』を見ると、福岡平野の内側まで大きく海が入り込んでおり、ラグーンを形成していたことがわかります。中世には、平清盛が築いたとされる人工の港「袖の湊」を中心として港町として栄え、それは現在の冷泉町から呉服町のあたりが中心地であったようです。
 九州最大の風俗街である中洲は、その名の由来通り、那珂川の中州の地形の上に営まれています。また現在は博多駅の東側を流れている御笠川は、かつては現在のキャナルシティあたりで那珂川と合流していました。すなわち中洲の地形は、かつてここにそそいでいた二つの河川による沖積作用で形成された地形なのです。現在の中洲が形成されたのは中世の終わりころと推定されており、博多の中では新しく生まれた土地でした。
 江戸時代までの中洲は畑くらいにしか利用されていなかったようですが、明治時代以降になると芝居小屋や商業施設、カフェやバーが建ち並ぶようになり、戦後には赤線となって現在のソープ街へとつながっていきました。

10.那覇
 那覇は琉球王国の首都である首里の外港として始まりました。もともと那覇の周辺は海が内陸に入り込んだラグーン地形を形成しており、那覇市街の南に位置する漫湖や、市街地の中心を流れる久茂地川はラグーンの名残と考えられます。そして辻や松山、前島はそれぞれラグーンの前面に堆積した砂で形成された島であったと推定されています。
 辻は琉球王国の摂政、羽地朝秀によって1672年に設置された遊郭から始まります。このころの辻はまだ砂州上の土地であったと想定されることから、無人の島に人工的に設置された遊郭であったと考えられます。その後、琉球処分をへて沖縄県となっても、辻は公認の遊郭として繁栄し続けました。第二次世界大戦で壊滅的な被害を受けますが、戦後には復興し、本土復帰をへて今日のソープ街へとつながっていきます。
 また辻と同様に、かつては砂州であったと考えられる松山と前島には、それぞれキャバクラとピンサロが建ちならぶようになりました。今日では前島のピンサロは表向き営業をおこなっていませんが、ひそかに営業をおこなっているところもあるようです。

おわりに
 このように現在ある風俗街の多くが、水辺に関連した土地を起源とし、綿々と続いてきたことがわかります。周辺の環境が変化し、現在は水辺との関連を感じるのが難しいような場所であっても、かつての土地の記憶が、いわば磁場のような力で、風俗の営みを引き寄せ、つなぎ留めておくのかもしれません。
 江戸時代の人々は「浮世」という言葉に、うつろいやすい現実の世界と、享楽的な風俗の世界の、両方の意味を持たせました。ノーベル賞作家のカズオ・イシグロは「浮世」に「floating world」の英訳を当てましたが、それはまさに、水辺に浮かぶ風俗の世界を言い表したかのような言葉でもあります。しかし一方で、私たちのいる現実の世界もまた不安定で変化しやすいものです。だからこそ私たちは、つかの間の彼岸を求めてしまうのかもしれません。
 なおすべての風俗の場が、ここで紹介したような水辺に関連した場所であるわけではありませんが、そうした事例についてはまた稿を改めて論じることにしたいと思います。

 長文・乱筆のほど失礼いたしました。

 研究部長 えせ男爵 (R02.05.16)

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