by えせ男爵氏
いつもお世話になっております。研究部のえせ男爵と申します。このたびは過日開催された奈良合同調査に合わせて開催された、平城宮跡エクスカーションの報告をさせていただきます。
開催日時:令和5年5月吉日 午後
参加者?(敬称略):KEN、勝太郎、たいらの漬盛、ゆうすけ、ベリンダ、まっつー、いけとし、ラサロ、ゴンチ、nlk、誠、筒井、ルノアール、ミニクロ、ホセマリア、阪神四日市、ホロホロ、えせ男爵(計18名)
幹事:えせ男爵
平城宮跡の概要
710年から784年まで日本の都であった平城京の中枢部であり、国家的儀礼の場である大極殿院、天皇の住まいである内裏、貴族や官僚が政務を行う朝堂院や八省、官衙などによって構成された施設です。今で言うなら皇居と霞ヶ関を合わせたような場所となります。国指定の特別史跡、そしてユネスコ世界遺産「古都奈良の文化財」の構成要素のひとつでもあります。奈良文化財研究所によって60年以上にわたって発掘調査が継続的に行われ、その成果に基づいて第一次大極殿、朱雀門などの復元が行われています。
見学コース
@佐伯門→A平城宮跡資料館→B大極門・東楼→C第一次大極殿→D第二次大極殿跡→E東方官衙地区→F東院庭園
以上のコースをたどり、約2時間の行程でした。幹事のえせ男爵が「ブラタモリ的平城宮跡の歩き方」というテーマの元、それぞれのポイントで解説を行いました。以下、当日解説した内容のダイジェストを掲載します。
@佐伯門
佐伯門は平城宮にあった12の門のひとつで、西側にあり、そこを起点に一条大路が西に向かってのびていました。現在は基壇のみ復元されています。
佐伯門の向かいにあるのが国立文化財機構奈良文化財研究所です。現在の庁舎を建てる際の発掘調査によって一条大路の遺構が確認され、平城京が造営される以前の旧地形は、秋篠川の流路であり現在よりも4メートルほど低かったことがわかりました。平城京が造営される際、秋篠川を南北方向に直線的に流れるように河川整備を行った上で、低くなっている部分を埋め立て、一条大路が平坦な道路になるように土木工事が行われたことが明らかになりました。
A平城宮跡資料館
平城宮跡の発掘調査の成果を紹介した資料館で、無料で見学できます。まず入ったところに平城宮および平城京の範囲を示した航空写真があり、その広がりを実感することができます。
現在ではただ平坦な野原が広がっているという印象の平城宮跡ですが、平城京が造営される以前は、南北方向にふたつの谷が入り込んだ起伏のある地形でした。平城宮の造営にあたっては大規模な土木工事が行われ、谷状の地形を埋め立て、今見るような平坦な地形が人工的に作り出されたのです。しかし現在でも旧地形の名残りは、平城宮跡の北側にある佐紀池と水上池によってうかがい知ることができます。また旧地形で谷だった箇所は、現在でも地下水脈が通っており、湿った土地となっています。こうした水分を多く含んだ土中に埋まった有機物は、酸素に触れることがないため腐朽せずに残存することも多く、平城宮跡ではこうした場所から木簡をはじめとする木製品が数多く出土しています。
平城宮跡資料館にも出土した木簡が、保存処理を施された上で展示されています。木簡のうち多くの比率を占めるのが荷札木簡であり、そこに書かれている品名から、全国から貢納として運ばれてきた品目(例えばカツオやアワビなどの海産物)を知ることができます。また木簡のうちのいくつかは縦に三つに割かれた状態で出土していますが、これは用済みとなった木簡を籌木として再利用したものと考えられます。籌木とは大便をした際に尻をぬぐう木べらのことで、いわばトイレットペーパーのようなものです。
B大極門・東楼
大極門は大極殿院の南門であり、平城宮跡の中で最も新しく復元された建物です。大極門の左右には東楼と西楼という高層の建物があり、このうち現在、東楼の復元工事が進められています。
東楼の復元工事現場には工事用の巨大な素屋根がかけられています。これは大極門の復元工事でも用いられたもので、大極門の竣工後、そのまま横にスライドして東楼の位置に移されました。東楼が完成したら、今度は西楼の位置までスライドされる予定です。
C第一次大極殿
平城宮の中心的な大型建物で、その中には天皇が座る高御座が置かれていました。大極殿の前面は広場となっており、そこで即位の礼や元日朝賀などの国家的に重要な儀礼が行われました。「大極」とは北極星のことで、宇宙の中心と考えられたことから、天皇が世界の中心にいることを象徴的に表した建物となっています。もともとこの思想は中国に由来し、皇帝を北極星になぞらえ、皇帝が世界の中心にいることを表す建物として「太極殿」が建てました。平城京は中国の唐の長安城をモデルに造営されたため、その「太極殿」にならって「大極殿」を建てたのです。
しかし中国の世界観からすると、中国の皇帝以外に世界の中心があってはならず、平城宮に大極殿があることは許しがたいことであったと考えられます。しかし一方で日本は、天皇をあくまで中国の皇帝と対等な存在とするという外交姿勢をつらぬきました。それは厩戸皇子(聖徳太子)が隋の煬帝に送った国書に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」と書いたことに始まります。この国書を読み煬帝は激怒したと伝えられていますが、それはしばしば誤解されるように「日没する処」という表現に怒ったのではありません。中国の世界観では「天子(皇帝)」はただ一人の存在であり、日本の天皇が皇帝と対等な「天子」と名乗ったことに怒ったのです。
なお第一次大極殿の復元にあたっては、屋根の棟の中心に北極星を表現した宝珠の装飾が置かれました。しかしこれはあくまで想像による復元であり、実際にこのようなものがあったことを示す資料はありません。
D第二次大極殿跡
第一次大極殿の東側にあるのが第二次大極殿跡です。740年に平城京から恭仁京に一時的に遷都した際、第一次大極殿の建物は解体されて恭仁宮に移築されました。その後745年にふたたび平城京が都とされましたが、恭仁宮の第一次大極殿の建物はそのまま残されて山城国国分寺の金堂に転用され、平城宮には新たに大極殿が建造されました。これが第二次大極殿です。第二次大極殿はその基壇だけが復元されており、復元建物はありません。
E東方官衙地区
第二次大極殿跡の東側の地区は、官僚が行政業務を行った地区であり、宮内省の建物が復元されている他、磚積官衙と呼ばれる遺構の露出展示を行う遺構展示館などがあります。
この地区は旧地形で谷が走っていた箇所であり、現在でも地形的に低くなっており湿った土地となっています。平城宮が機能していた時には南北に基幹排水路が走っており、その遺構(SD2700)およびその周辺からはこれまで数多くの木簡や木製品が出土しています。
なおこの谷地形に沿った地下水は、平城宮跡の外側では現在のミ・ナーラ(旧そごう奈良店)の方に向かって流れています。そごう奈良店を建設する際に発見された長屋王邸跡や、その北側の二条大路からは大量の木簡が出土しています。
なお二条大路から出土した木簡群(二条大路木簡)により、長屋王の変(729)の後、その邸宅の跡地は光明皇后の皇后宮として再利用されたことがわかりました。藤原四兄弟の陰謀によって自死に追い込まれた長屋王の怨念のために、藤原四兄弟も次々に病死したといわれていますが(実際には天然痘のパンデミックのため)、藤原四兄弟の実妹である光明皇后は、祟りも恐れず長屋王の死んだ場所を自宅にしたこととなります。何とも肝のすわった人物だったのでしょう。
F東院庭園
東方官衙地区の東側には平城宮の中でもイレギュラーに張り出した地区があります。ここは旧地形では谷の東側の微高地となっており、皇太子が居住した地区と推定されていることから東院地区と呼ばれています。今でも皇太子のことを「東宮」と呼ぶことがありますが、平城宮では実際に宮域の東側の地区に住んでいたと考えられています。
この東院地区の南端にあるのが東院庭園です。発掘調査の結果、ここには池をともなう庭園があったことが判明しました。庭園の池は、もともとL字形の直線的な平面形を持つ池として作られましたが、その後、曲線的な自然の景観に似せた池に作り変えられたことも発掘で明らかになりました。直線的なプランの池は中国や朝鮮半島によく見られますが、奈良時代の人々はより自然な雰囲気を好んで改造したのかもしれません。これは後の日本庭園の特徴として受け継がれていく要素です。東院庭園の復元では、この後期の庭園の
様子を再現しています。
また池の北側には築山石組がありますが、これは出土した石材をそのまま生かして復元しています。平安時代に書かれた造園の手引書『作庭記』には「石を立てん事、まづ大旨をこころうべき也」と記されていることからも分かる通り、日本庭園で最も重要な要素は石を立てることなのですが、すでにその要素は東院庭園に備わっていました。つまり日本庭園の源流は、この東院庭園にたどることができると言えるのです。
以上が当日のエクスカーションの概要となります。幸いなことに天候には恵まれましたが、汗ばむほどの陽気と、けっこうな距離を徒歩で歩いたことで、参加者のみなさまはさぞおつかれになったことと思います。お付き合いいただいたみなさま、ありがとうございました。
研究部長 えせ男爵 (R05.05.27)