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研究メモ「ラブホテルに関するあれこれ」

by アローゼン氏


 アローゼンです。今回はラブホテルに関する研究メモです。

 四国支部の管内に引っ越して大きく変わったのが、移動手段がほぼ車だけになったことです。地方では公共交通機関の衰退が著しく、鉄道や路線バスが廃止されたり本数が減ったりして、車なしには生活が送れない状況です。高速バスや特急列車などの公共交通機関を使う場合も、バスターミナルや鉄道駅に車を停めて乗り換える「パークアンドライド」が当たり前になっています。
 そのため、せっかく職場や日ピンの懇親会に出席しても、お酒が一切飲めません。

 話が飛んでしまいましたが、そんな地方のラブホテルについて、都市や郊外にあるラブホテルと比較して書いてみようと思い立ちました。長らく都市に住んでいた私にとって、ラブホテルは五反田や鶯谷など駅近にあるものというイメージがありました。横浜町田や京都南など高速道路のインターチェンジ付近に多い郊外型のラブホテルもありますが、ほとんど利用したことがありませんでした。しかし、地方ではラブホテルは中心都市の郊外に集まっていることが多く、駅前などの中心市街地には意外と少ないことに気づきました。これはラブホテル独自の事情があると思われます。

 ラブホテルは風俗営業法に基づく届け出が必要ないわゆる「風俗店」で、建設や開業に様々な手続きが必要とされています。開業できる場所や営業面積などが細かく決められているため、地方都市の狭い市街地の中には造りにくいという事情が背景にあります。ちなみに、一連の手続きが面倒という理由で、旅館業法に基づいて届けていながらラブホテルとして営業している「偽装ラブホ」もあちらこちらにあります。大阪のラブホテルにはこういった「偽装ラブホ」が数多くあり、安いビジネスホテルのような、みすぼらしい造りのホテルがこれにあたります。

 閑話休題。私が住んでいる東四国事務所の管内では、高松市の木太地区と徳島市の川内地区でラブホテルが多く営業しています。木太地区、川内地区とも中心市街地から車で10分ほどの場所にあり、移動に便利です。木太地区のラブホテルの多くは詰田川の両岸に密集し、川内地区のラブホテルは県道沿いに集まっています。高松と徳島のデリヘル業者はこれらのラブホ街やその近くに事務所を構えていることが多く、いわゆる「ラブホ街」の方が中心市街地のホテルより早く派遣されることもままあります。

 都市郊外や地方のラブホテルは「車社会」を反映して、1部屋に1台以上の駐車スペースが設けられています。いわゆる「モーテル」と呼ばれるホテルです。欧米の「モーテル」は普通の宿泊施設ですが、日本では「駐車スペース付きラブホ」という意味で使用されています。車で入口に乗り付けると、駐車スペースに設置されたパネルに部屋の空き状況や利用価格が表示されており、それを見ながら選ぶことになります。同じラブホテルでも、地方の中心市街地にあるホテルは、駐車場と部屋が別々になっていて、車を駐車場に停めてからホテルに入って部屋を選びます。

 都市のラブホテルの場合、一般のカップルが利用するホテルとホテヘル・デリヘルで利用するホテルが実質的に分かれていることがあります。例えば、大阪の日本橋のホテルの多くは老朽化が進み、ホテヘルやデリヘル以外では遠慮したいホテルがまま見られます。こういったホテルはホテヘル業者と実質的に「提携」することで稼働しています。一般のカップルは、郊外のラブホテルや比較的綺麗なホテルを利用することが多いようです。地方の場合、絶対数が少ないため、こういった区別はなく、デリヘル利用とカップル利用が併存しています。

 都市や郊外のラブホテルは「目立つ」ことが普通ですが、地方のラブホテルはあまり目立つ場所にはないことが多いという特徴があります。都市や郊外は数が多く競争が激しいので、とにかく目立つことでお客に入ってもらわなければなりません。地方の場合、コミュニティが小さく、目立つ場所にラブホテルがあると、人の目に触れやすいという問題があります。都市のラブホテルは値段や部屋の広さなどバラエティに富んでいますが、地方はそれほど大きな差はなく、内装などの「コンセプト」で差異を設けています。

 ラブホテルは江戸時代に流行った「出会い茶屋」と呼ばれる小屋から始まったと言われています。
 上野にある不忍池は出会い茶屋のメッカと言われ、その名残か、近くの湯島にはラブホテルが多く見られます。また、兎我野町や谷町界隈のラブホテルは墓地があったところに建てられています。江戸時代の初めまではお墓は一人一基でしたが、人口が増加して足りなくなってきたので、一家に一基に変わり、逆に土地が余るようになりました。墓地を所有している寺院は、これらの余った土地を売りに出しましたが、土葬が一般的で大量の人骨が埋まっている土地に家を建てる人などいるはずもなく、これらの土地には遊郭が多く建てられました。人気のない湿地帯だった埋田(後の梅田)界隈が発展するきっかけは、太融寺が所有していた墓地の跡に建てられた「曽根崎新地」でした。戦後になり、遊郭はなくなりましたが、跡地にラブホテルがたくさん建てられました。

 ラブホテルは日本の風俗史そのものであり、現在に至るまで多くの資料や話題を提供し続けています。普段は何気なく利用しているラブホテルですが、たまに思いをはせてみてはいかがでしょうか。

 話があちこち飛んでしまい、まとまりがありませんが、ご精読ありがとうございました。

 四国支部長 アローゼン (H29.11.05)

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