by 伊勢屋氏
当会に入会した「あの頃は」時期の近辺を思い出しつつ、思いつくまま当時の兎我野町界隈の様子を中心に振り返ってみたいと思います。消え行く歴史の1コマのなんらかの記録になればと思います。
当時の兎我野町界隈はホテヘルがちらほらとでき始めたころで、バカ一梅田店、ホテ全梅田店を中心に箱型店舗を侵食し始めたころでした。
まだまだピンサロ店舗も数多く、老舗のヘルス店も盛況な時期でした。逆に無料案内所はほとんど無く、街の光景も今のものとは異なっていました。
今では兎我野町界隈の路上には、ホテヘル嬢+お客の組み合わせの歩行者が溢れていますが、当時は店舗型風俗店へいそいそと歩いて入っていく若干のお客と、路上の客引き(おばちゃんが多かった?)が点在するくらいで、人の流れの面においても光景がずいぶんと変わった気がします。
1.バカ一梅田店(当時)
私が梅田で初めて行ったホテヘルです。当時は現スピード梅田店のところに受付があり、利用ホテルは山○だったと思います。店のブースに誘導されるのではなく、一緒に歩いてホテルに入ったり、湯船に浸かったりするシチュエーションが新鮮に感じた”あの頃”です。
系列店(?)のパックマン梅田店が斜め向かいにあり、バカ一でパネル選びをパスすると店員氏の奨めで、パックマンへ誘導され、また逆もありました。営業時間も24時以降も可能であったため、そのパックマンでは3時をすぎるとサービスタイム料金になるという、面白いシステムもありました。
当時のバカ一ではまだゴールドカードができ始めたところだったためか、ゴールド会員向けのイベントが毎月催されていて、割とメリットのあるイベントだった記憶があります。今ではゴールド会員が増えすぎたためなのかは不明ですが、あまりメリットが無くなった気がします。
あの頃の看板嬢も未だに(他店舗ですが)活躍されている方も数名おられるようで、花の命は(←Tigerさんのをいただきました)短いような長いような色々です。
2.平田第二レジャービル地下1階
激安ピンサロ「ルージュ」が当時は大盛況でした。サービス料金で25分3,900円(フリー)はお得で、しかも、お嬢のレベルも費用対効果では、なかなか高かったと印象があります。「なんでこの子がここにいてんの?」的な若くて細くて可愛いお嬢が”間違って(?)入店してしまった”的な形もあり、フリーでも十分に楽しませていただきました。店舗のスペースは昔の飲み屋の跡を使っているようで、待合室として使っていたスペースは、飲み屋当時の面影そのままでした。朝10時には待合室に10名以上の待ち人で溢れ、どないかしたような風貌の店員氏に誘導され、暗いブースへ誘導されていきます。いい子にあたると次は指名したくなるのですが、指名の場合は料金が約2倍となるシステムとなっていました。
平田第二レジャービル地下1階にはルージュ以外にも数店舗のピンサロ店があり、お店の前にチャイナドレス風を着用したお嬢が2〜3名たっていて誘蛾灯のように地下に迷い込んだお役を誘導していたかの光景でした。私自身も3回ほど誘導されました(笑)
そういえば、ルージュに行くと翌週はよく扁桃腺を腫らしたものでした。回転系のお店であり、おしぼり拭きはやはり不衛生のようですね。。
その後、大人の事情で店が無くなり、ピンサロ文化が縮小されているのは寂しい気がします。
3.リッチドールpart2
80年代後半から兎我野町のドン的な存在のヘルス店のマットができるお店として、リッチドールpart2がありました。90年代は競合店もあまりなく、唯我独尊的な接客が印象的でした。飛び込みで店に入り待ち時間の多いことを理由に去ろうとすると、「こういうお店は.....」と説教をされます。今でも一部のホテヘル受付でこのような客への指導的な光景はありますが、去り際が良いのがリピートにつながる気がします。
リッチドールpart2の系列店の太郎と花子も近所にあり、フリーで入ると太郎と花子に回されることも多く、お客が3名ほど店員氏に先導されて太郎と花子に歩いて移動する様はこっけいでした。お店の指導はお嬢に対しても、あたかも軍隊方式的な厳しさもあったかもしれませんが、お客に対しても整列させるかのごとくの誘導や案内は、お店優勢の構図だったように思います。
「あの頃」はまだリッチドールpart2も元気に思えた頃で、徐々にホテヘル系に侵食される転換期だったと思います。
4.シティヘブン(分厚いほう)
風俗情報誌なるものがこの世に登場したのはいつくらいなのかはよく知りませんが、90年くらいには存在していたような記憶がかすかにあります。おとなの遊艶地、ナイタイマガジン、シティプレスといった情報誌が幅を利かせていた90年代に始まって、「あの頃」はシティヘブンの分厚い本が大きく成長をしていた時期だったように記憶しています。
「名古屋の風俗情報誌でどえらい分厚い本がある」「電話帳くらい分厚い」と名古屋の友人に教えてもらい、当時の関西版はまだ今ほど分厚くなく、月を追う毎に分厚さが増していった記憶があります。
スチール記憶(?)というのでしょうか、広告ページに載っていたお嬢の写真をかすかに覚えていたりして、偶然他店舗に移られたことに気づいたりと、シティヘブンの記憶が意外なところで脳に残っていたりするものです。
5.某AV女優
お昼に8chを見ていると、兎我野町のヘルス嬢がTVに出ていました。そのルックスの素晴らしさに大そう感動したのを鮮明に覚えています。そのヘルス店は程無く廃業になりましたが、そのお嬢は某AV女優として現在もご活躍の様子です。入っておけばよかった...(笑)
6.ホテルプリンス
当時の兎我野町界隈にはホテヘルで利用できるホテルがあまりなく、プリンスはいつも大盛況でした。週末の夜ともなれば、1時間ほどホテルの受付で待つこともあり、お嬢にとっては迷惑な話ですが、待ち時間の間に会話のコミュニケーションができるというのはいい面もありました。
しかし、1時間待っている同志たちはほぼ100%がホテヘル嬢+客の組み合わせで、同伴しているお嬢を比べてしまい、お互いに一喜一憂したり、意味不明の優越感や悲哀を感じたりしていたと思います。
またプリンスはお客のプライバシーをあまり気にしないホテルです。2基のエレベータがあるのですが、お客が乗っているエレベータにお掃除隊のおばちゃんたち数名がずかずかの同乗してくるあたりは、たくましいの一言につきます。時にはプレイ中に部屋を間違えて掃除に入ってきたりと、適当な感じがプリンスらしいところです。
ホテル全体が古めかしいのですが、水周りの疲弊感は著しく悪く、当時は湯船に浸かるのが正直イヤでした。今では一部(?)風呂釜が改装されたようで、ましになりました。
部屋には和室調の部屋もあり、他のホテルとは大きく一線を画しています。
西日本の某任侠氏はプライベートでもプリンスを利用されたことがあったとは伝説となっている有名な話ですが、時々、ホテヘル嬢+お客の組み合わせ以外の一般客に遭遇することもあり、他のホテルを進めるべきかどうか後ろ髪を惹かれる気持ちになりながら、何も言わずに素通りしています(笑)。
7.ルサロンボナデア(今は無い)
兎我野町ではありませんが、一番よく通ったお店がボナデアだったかもしれません。前身のクエクエ時代には興味があったものの、行く機会がなく、丁度、西中島合同調査の案内をいただいたこともあって、同店に行ってみたのがきっかけでした。
ピンサロにしては、やけに高い料金体系(サービスタイムは安かった)と、高圧的な応対の店員氏がいる中で、お嬢のレベル・サービスは絶品でした。関西メンバーの多くをボナデアに行くべしと推奨したことも多々あったと記憶していますが、おおむね満足いただけたと良いほうに記憶を解釈しています。
「キャバクラといってスカウトされて、来てみてビックリ!」方式のスカウトが多いようで、「ビックリ」のタイミングで「その場を去る(=仕事はしない)」となるのか「(ぐっとこらえて)ボナデアで仕事をする」のいずれかの選択肢がお嬢には選べるのですが、(どのくらいの割合かは不明ですが)意外と「(ぐっとこらえて)ボナデアで仕事をする」を選択されるお嬢も多かったのか、ルックス・性格ともにいい子が多いお店でした。
中でも印象に残っているのは、私に捕鯨の指導をしてくれたお嬢です。いわば師匠ですかね(笑)偶然が重なって捕鯨に至ることはあっても、正直よく分かっておらず、そんななかそのお嬢の一言がきっかけとなり、見えていなかったものが見えた気になりました。
今年の春に、ボナデア最後の営業日があったのですが、奇しくも私はその日の夜に予約をしており、確認の電話をすると電話がつながらず、「もしや...」と思ったら、やはり「もしや」でした。
一部のお嬢は系列店等で今もご活躍の様子です。系列店をお嬢を訪ねて行ってきましたが、どうも感じが違います。
ボナデア独特の空間、あのレースのすけすけのカーテン、隣のブースのお嬢のアノ声、態度の悪い店員氏の応対、お嬢の性格の良さ、ボナデア独特の背中の広く開いた制服、そういうものの集合体によって満足感が構成されていたということに気がつきました。
いつかあの場所に復活されたらいいなぁと思いつつ、私の「あの頃は」を終わりといたします。
総務部長 伊勢屋 (H19.12.25)