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研究ノート「障害を考える」

by 立川紫煙氏


 今日は、立川紫煙です。

 意志を持とうが持つまいが、脊椎があろうがなかろうが、生物の本懐は自己保存である。個体として種族として個体及び個体数を保全、拡増せしめる本能を先天的に有している。
 生理的な条件反射、法的な意味での緊急避難、墓碑に名を刻むこと、官僚の保身、社会的に名を残すこと、そして児孫をなすこと、畢竟全ての人間行動は保全行動と言えなくない。
 嘗て単細胞であった遠い祖先が、細胞分裂による自己保存を捨て有性による生殖(物理的個体保全)を選択して以来数十億年、先天的使命として性欲は生物を支配してきた。かような牽強付会によって私は私の多情と風湯三昧を肯定しているわけではありますが、ついでに言うと「挿れていい?」とか「ゴム外していい?」は生物として人間の必尋事項かと…断言します、本強はなくなりません。
 多少言い過ぎました。すいません。まぁ紳士を自称する私は本強なんぞしませんがね(お願いすることはなくもない?)。
 有性生殖動物として異性に抱く性欲の根拠というか契機というか、つまり魅力はより良い個体を生じうる可能性に起因する。孔雀の羽、一角鯨の角、その他哺乳類に見られる雌をめぐる数多の死闘は本能的な進化の方向性と遺伝子的優性選択の表れである。

 優性、ここまできて今回のレポの趣旨が分ってきたものと存じます。ある意味現代社会では禁忌でしょうし、掲載は会長様のご判断に委ねます。

平成20年6月下旬某日未明
都内某デリ

 血管走り隆々と棒徒化した吾が愛しき不如意棒。事態の沈静化を図るべく機動隊の召集を余儀なくされた。度々利用してきた学園系デリに照準を合わせ、サイトで出勤嬢を確認のうえ入電。狙いは本日入店の未経験19歳と18歳の2名である。
私「本日入店の娘はいける?」
店「次回ご案内は5時過ぎになりますねぇ…」
9時出社の私にとって5時は少々きつい
私「…他に早い娘は?」
店「A(26才)さんとB(18才、第二候補)ちゃんですね。」
そして私に返答の時間を与えることなくAさんを推してくる。サービスがよいとかリピートが多いとか。学園系デリに26才が在籍していることも不思議だが、真性炉帝国皇帝に選択の余地があるのか。
 B嬢18才、平成生まれに140代の身長、スペック上は完璧であるが、度々利用するデリにも関わらず今まで二の足を踏んでいたのには訳がある。サイト内の掲示板を見ていると、すぐ行ける嬢として高確率で名前が挙がっており、かつAF等オプション制限フリーときている。大金を投じて培った経験が、彼女の指名を避けていた。
 嗚呼哀しき炉者の性。皆様、パネルを前に決め手に事欠き「若さ」のみで選んだことはありませんか?今回は対手が26才の方ということで問答無用でしたが、店員のAさん推薦文句を遮る形で。
私「Bちゃんで」
店「…Bちゃんで宜しいですか?」
私「…はい」
店「では指名料サービスさせて頂きますので」
私「…?」

 程なくして現れた嬢は身体障害者であった。
 私に限って言えば、彼女は性欲を惹起する対象とはなりえません。前頭葉に理性を宿し、心が暫し本能を超越しうる我ら人類、私の勃起中枢が反応しなかった原因が生理的なものなのか、個人的性癖に由来するのかは分りません。
 いずれにせよ、彼女及び全人類の人間性は讃えられるべきものであることは言うまでもありません。

 

管理者から補足事項
 本レポートの掲載にはかなりの逡巡がありました。これは障害を持つ人に対する差別なのではないかと。。。しかし,障害を持っているからと言って,この仕事を選択して悪いことはない,否,そうした考えを持つことこそ差別ではないのか,いや,掲載をしない事こそ,真の差別なのではないか,そう思って掲載に踏み切りました。
 以前本で読んだ事があります「障害は障害ではない,それは一つの個性なのだ」と。顔が不細工な子がいる,胸が小さい子がいる,そして,障害を持つ子がいる,障害はこうしたファクターの一つに過ぎないのではないか,今回立川紫煙さんが性欲が湧かなかったのは,私が巨乳の子に性欲をあまり感じない事と同等なのでないか,そう考えるのが,正しい答えのような気がしてきたのです。
 障害を持っている人が,職業選択の上で,差別的に扱われる事は多々あると仄聞しております。少なくとも,このお店は,そうした事をしなかった,その姿勢はまず賞賛されるべきですし,それ以上に,この仕事に飛び込んできた彼女を賞賛したいと思います。きっと,色々悩んだ上での決断だったろうと思います。もしかしたら,障害を持っていても,一人の女性であることの証として,この仕事を敢えて選んだのかもしれない。客からの好奇の視線や興味本位の質問を浴びせられる事を覚悟の上で,この仕事を選んだ,敢えて茨の道を歩むことにした彼女の決断は,これは健常者の我々では,到底想像できない勇気の賜物と言ってもいいでしょう。
 以前私の高校にも障害を持った同級生がいました。彼が苛められているとき,私は耐え切れずに助太刀に入ったことがありました。その時,私が慰めたら彼はこんな事を言ったのです。
「幸せと不幸せは死ぬまでに必ずプラスマイナスゼロになる。今は辛くてもこれは幸せの貯金をしているようなもの,いつか必ず幸せになれる,だから僕は何があっても,絶対に挫けないから,大丈夫。同情してくれも嬉しくない,同情は差別と一緒だよ。」
何か目から鱗といいますか,人生の真理を聞いた気がして,後頭部を殴られたようなそんな気がしました。彼とは卒業してからも友人でしたが,人生で大切な,色々な事を教えられたような気がします。
 例えば指の無い人が箸を持つことがどれほど大変か,例えば片足の無い人が歩くことがどれだけ大変か,例えば1センチの段差が車椅子の人にとっては絶壁に等しい如何に大きな障害か,健常者の我々には分からない事は山のようにあります。そうした事を教えられました。これは今の私にとって大きな財産です。
 彼女には,どんな困難にも打ち勝って,是非,目標達成まで頑張って欲しいと思います。そして,同じお店の女の子たちが,その頑張る姿を目の当たりにして,私がそうだったように,彼女から大切な何かを得てくれれば,と願わずにいられません。そして気がついてください。

 障害は一つの個性である,と。

 (H20.07.21)

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