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論文「セクパブの存在価値と社会における男性の弱体化についての一考察」

by JT氏


 1 前程
 昨今、セクパブなる風俗が台頭してきている。いや、アジア系エステと並び増殖しているといっても過言ではないだろう。それは、性風俗業界の多様化の一部として認識されなくもないが、性風俗として認めがたいものもあると思われる。それは、性風俗の最終目的である性的欲求からの開放が成されないという事実であり、現状の性風俗とは一線を画している。そこで、セクパブの存在構造を分析する事により、風俗業界に与えた影響を考察して見たい。

 2 セクパブの発生理論
 セクパブの優れている点は、男の欲望の弱点を捉えているところにあると考えられ、それは主に次の二点によって構成される。一つは、男の幼児性であり、もう一つはそれに基づく集団性理論であると考えられる。主にセクパブの支持層は20代後半から30代前半のサラリーマン層であるが、彼らがおかれている社会的状況のなかでの現象として問題にされるのが幼児性への回帰であるが、正にそこを狙った風俗と考える事ができる。そして、その象徴であるのが女性の乳房であり、セクパブの基本的プレーである、男性の膝上に上半身裸の女性が乗るというサービスは、その欲求を満たしている。元来風俗における幼児性を象徴したサービスは、イメクラやSMクラブにおける赤ちゃんプレーがあるが、決定的に違うのはその存在構成であり、イメージプレーは能動的方法によって欲求を満たし、セクパブは受動的立場になり深層心理に訴える事により、欲求を満たしていると考えられる。更に細かく分析すると次のようになる。

 3 イメージプレイにおける性的欲求からの開放
 まず、最大の特徴は自らの欲求をさらけ出し、それになりきる事で一時の欲求を開放する方法で、社会的に認識し得ないプレーを実現する事により成立する。ここで、認識しておかなければならないのは、イメージプレイにおける、赤ちゃんプレイと双璧である痴漢プレイは、まったく異なった形で成立している事実であり、それはあくまでも、非社会的な性的欲求を擬似的に可能にしているだけである。この両プレイは同じ風俗産業形態で実現するが、以上のようにそのもつ意味合いは決定的に違う。
 そもそも、幼児性への回帰は、男であれば誰でも持ち合わせているがその人の資質によってその度合いが違い、その度合いが強ければ強い程、性的欲求の開放の方法が特殊になる。そして主にその資質は幼児期における生活環境によって形成されると考えられる。(フロイトの精神分析入門を参照の事)一般的に精神的ストレスは、社会生活のなかで自己認識に対する障害の積み重ねであると考えられているが、その精神的ストレスが全てではないが性的欲求に展稼されその解消が、性的欲求からの開放として現される。
 このように、能動的に性的欲求を解消するのは極めて正常な行為であり、決して恥ずべき事ではない。

 4 セクパブの存在構成
 男の幼児性は誰でも持ち合わせているのは前書した通りであるが、通常は自己において認識されるほど大きくは無い。しかし幼児期に形成された幼児性は、必ず深層心理として存在しており、その象徴が乳房への憧れであると考えられる。その最小公約数の実現がセクパブであると考えられるが、この最大の問題点は男性の弱体化による幼児性がうみだす、集団性であると思われる。それは、現実問題として意思決定の欠如や、平等を望む体質、個人行動ができない男として、社会問題化しており、そこを狙った風俗がセクパブであると考えられる。正に、皆で渡れば怖くない的発想である。そこには、ヒーリング効果を望むわけでもなく、性的欲求からの開放を望むわけでもなく、深層に潜む幼児性を満たすだけの物でしかない。こんな風変わりな風俗は、かつて存在していなかったように思われる。

 5 総括
 かつてノーパン喫茶、それから発展したランジェリーパブという、視覚に訴える風俗が存在した。しかし、当然のごとく2年あまりのブームの後は消滅していった。セクパブの発生理論は視覚系風俗の発展型と解釈するか、通常の性風俗と言われている物の後退型と見るかは意見の別れるところであるが、非常に解釈の難しい風俗である。しかしそこにある物は男性の幼児化における弱体化が存在しているのは間違い無い。性風俗は男の遊びとしては究極の存在であるが、時代の変遷と共に弱体化するのであれば、社会における男性の弱体化とともに、とても寂しいことであし、そうならない事を祈るばかりである。なぜなら、性風俗は男の修行場として最適であり、なおかつ、社会生活における規律規範を守る為にも必要だからである。セクパブでは、社会に対する防衛力は無いに等しい。私達は、これらの事実を認識し社会に対して主張しなければならないのではないだろうか。

 風俗産業・経済研究室長 JT